「前提」の崩壊

19世紀前半、ロシアの数学者ロバチェフスキーが、「平行線が交わると仮定した」幾何学の可能性を提起しました。最初の講演は冷笑に迎えられたそうですが、結果的に彼の論が非ユークリッド幾何学の一つの端緒になりました。
当時の人の反応のわけはよく分かります。そんなばかなと。しかし、一旦理解した後は自分たちの今までの世界観が崩れていくことを感じたのではないでしょうか。自分たちがいかにある「前提」に縛られた世界観を持っていたかということ。そして、これが相対論とか現在の宇宙論にもつながっていくわけです。

亡くなった歴史学者網野善彦先生については前にも書きましたが、先生が力説されていたことの一つに、「百姓≠農民」であることに気がついてから、議論のフィールドが広がり、この先どこまで行くのか分からない、というのがありました。例えば、史料の読み方も全然変わってくるわけです。ですから、「富裕な水呑百姓」がいくらでも存在する。農業中心であるとした社会とか国家の従来の捉え方も全然違ったものが可能になるということですね。逆に、われわれがどうして、農業中心にマインドセットされたのかも非常に興味がそそられる点ではあります。

一方、日本人が当然のように前提としている「国」についても、必ずしも磐石とは限りません。日本の場合、「占領」はされたものの、世界史的に見れば非常に寛大なものでしたし、国家体制も温存されました。しかし、ヨーロッパに住んでいますと亡国の歴史を目の当たりにすることはそれこそ枚挙に暇がありませんし、現在でも国なき民は多く存在しています。それだけに、「国」のありがたみを実感していますし、国のありようを少しでも脅かす可能性のある物事に対してはこちらの人々は非常に敏感ですね。というか世界的に見て日本人が鈍感すぎるのかもしれません。実際にはどんな物事も蟻の一穴になりうると意識すべきでしょう。

しかし、実は、我々の一番の前提は自身の「不死」ではないでしょうか。現代人は、死を遠ざけ続けたため、自身の死を頭ではわかっても、その実、不死を前提とした心理状態の中にあると言いえると思います。ですから、氏の宣告を受けた際には、それこそ世界が崩壊するかのような感覚に襲われることになるでしょう。とはいえ、自分の死を受け入れることなんて、そんな簡単に出来るわけもなく、また、始終死を意識した生というのもありえないことでしょう。しかし、死から目をそむけることもまた、不自然なことともいえます。古来、人間の文化と言うものは、この精神的な亀裂から発しているということでしょう。何しろ、最新の説では、農業の起源は祭祀を行うための栽培にあるとのことで、そうだとすると宗教は農業(というか生産)に先んずることになります。まあ、ネアンデルタール人でさえも葬送儀礼を行っていたそうですから、そういう可能性は大でしょうね。

以上、最近の習近平氏と皇室とのいきさつに対する感想と、エリザベス・キューブラー=ロスの「死ぬ瞬間〜死とその過程について」を読了した読後感として。変な取り合わせですが。