脳と「本社」

養老孟司氏の「唯脳論」に、脳が自分の存在を守るために意識を発明したのではないかという話が出てきます。
普通、細胞は用済みになると自ら姿を消し去ります。たとえば、初期の胎児の指には水かきがありますが、成長するに従って指の間の細胞が死滅し、人間の手の形になってくるわけです。しかし、人間の脳の場合、末梢部(感覚器とか運動器など)に比して、以上に大きなサイズを維持しています。本来、このような存在は死滅するはずなんですが、なぜ生きながらえているのか。
養老氏の考えでは、脳の神経細胞がお互いにつながり合い、入力しあうことによって自らの存在を維持しているのではということなんです。つまり、自らの仕事を発明し、それを存在意義としているということですね。そして、そのような自己の内部でのやりとりが「意識」ではないかというのが氏の意見なんです。そのため、意識や思考や自我といったものがしばしば「自慰的」であるのはそのような理由からしてごく自然であるとも論じています。

筆者としては二つの感想があります。
まず、人間の場合、脳はそれ以外の身体にとって「寄生」しているような存在になっているのではないかということです。そもそも、脳というものは、その生命体や種にとって、より繁栄することをめざして発達させてきたものと思います。特に、個々の生命体の維持には脳は非常に有用であったと考えます。というのも、種の繁栄だけなら微生物のようなフレキシビリティが最も有効である可能性があるからです。それはともかく、このように生命の維持のためであったはずの脳には、いつの間にか身体に負荷をかけるような存在になっていく傾向があるように思えます。何しろ、人間の脳はエネルギーや酸素の20〜25%を消費しますし、自らの論理で酒やたばこをやって身体に負荷をかけ、果ては自殺や戦争までします。身体からするとたまったものじゃないですよね。岸田秀氏は、人間を「本能が壊れた」存在であると規定しましたが、こういうことを指すのではとも思います。

もう一つは、企業における「本社」とのアナロジーです。パーキンソンの法則じゃないですが、組織はすべからく増大していくものとされていますが、実は現業の場合、それはあてはまりません。むしろ、技術等の進展によって、必要とされる人工(にんく)はどんどん減っていきます。大昔は、人口の大半は農林水産業、特に食糧生産に従事していたものですが、今、先進国での農業人口の割合はどこも数パーセントでしょう。製造業でも、必要な人数をどんどん減らすことがカイゼンであり、減った分を余計に抱えることはありません。
しかし、知的労働(いや、もちろん、農林水産業や製造業の現場も立派な知的労働ですが、いわゆるホワイトカラーですね)の場合、これがなかなか減ってこない。傾向としてはどんどん増殖しますね。一つには、ホワイトカラーでは、インプット時間が結構長く、そのためメンバーが一人増えても、アウトプットは丸一人分増えない可能性が高いからです。だって、末端の補助職であってもそれなりにミーティングに参加しますし、そもそも仕事の指示を誰かから受けないと仕事にならないという部分があります。
特に、「本社」とよばれる存在にその傾向が顕著のように感じます。というのは、本社機能には仕事を作ることが使命に含まれており、それがしばしば歯止めがかからないからです。端的に言えば、本社内部での会議の多さ。もちろん、機能間の調整は必要でしょう。しかし、しばしば「自慰的」になっていないでしょうか。言い換えれば、組織としての「正気」を保つコストと言ってもいいかも知れません。そうしてみると、外部へのアウトプットに使えるエネルギーって案外小さいのではないかと思いますね。
これでも、成長過程にあって組織のベクトルが合っているときはそのような「正気」コストは低くて済みますが、一旦行き詰まりの局面にくると、このコストは一挙に跳ね上がることでしょう。

こういう時は、「身体性」の回復に向かうんでしょうね。つまり、人間で言えばくよくよ考えずに体を動かす。企業で言えば、トップから簡単明瞭な指示(プラスプレッシャー)をそれぞれの部署に与え、本社はあまり余計な口出しはしない。できれば、本社が自らの身を削る。

ただ、企業の場合はこんな感じでいいんでしょうが、国家レベルではどうでしょうか。特に日本の場合、財政状態は単に「脳」だけの問題ではなく、身体依存になった覚醒剤患者のようなものでしょうから、立ち直るためには強烈な「解毒」が必要でしょう。果たして体力が持つのかしらん。