彫刻的絵画

年末、日本に一時帰国する際に、フランクフルトで時間があったので、シュテーデル美術館に行ってきました。丁度、ボッティチェリ展をやっていたんですが、勉強になりましたね。

ヨーロッパの美術館は、王侯のコレクションがルーツのところがほとんどであるためか、蒐集されている画家が結構ワンパターンです。ルネサンスで言えば、クラナッハとかエル・グレコ、近代で言えばモネやルノアールは収蔵している美術館が多いですね。それだけ点数も多く、どこでも一応は買い求めることになっているように思います。日本の書跡集が必ず大聖武から始まるようなものですか。
ところがボッティチェリについて言うと、一時フィレンツェを支配した宗教家サヴォナローラの影響を受けたため、本人が作品をかなり焼却してしまったため、非常に点数が少ないらしいんです。そのため、生のボッティチェリはなかなかお目にかかれません。それこそフィレンツェのウフィツィに行かないと。そういう意味で、今回の展覧会、非常にレアなもののように思いました。

ところで、彼の絵を見てて気がついたんですが、何だか彫刻を見ているようなんですね。ボッティチェリで一番有名なのは、「ヴィーナスの誕生」でしょうが、あのヴィーナス、かねがね生気を感じませんでした。今回の展覧会でも同じような感じがしたんですが、一番エネルギーを使われているのが肌合いの描写です。これが何だか大理石の彫刻の表面のようで。

そこで思い出したんですが、ルネサンスの画家って、彫刻家を兼ねた例が非常に多いですね。ダ・ヴィンチミケランジェロは別格としても、ダ・ヴィンチの絵の師匠だったヴェロッキョも元々彫刻家で、キリストの洗礼の絵を弟子を合同で制作した際、ダ・ヴィンチの絵の出来があまりに素晴らしかったため、絵を断念し、彫刻一本に絞ったなんて逸話もあります。ルネサンス自体、当時続々と発掘されたギリシアやローマの彫刻の迫真力に魅了されて発達した面がありますので、彫刻からの影響って、今の我々が創造する以上のものがあるんでしょう。

また、ぐっと近代では、モディリアーニの絵は明らかに彫刻ですね。そもそも、彼は彫刻家のブランクーシに師事しており、ブランクーシは初期ギリシア彫刻に注目していたせいでしょう、彼もそのままその影響を受けているように見えます。ここで言う初期ギリシア彫刻というのは、普通思い浮かべるクラシック期でもなく、その前の生硬なアルカイック期でもなく、さらに古い、しかし現代から見ると斬新な感じがする彫刻群のことです。非常に抽象度が高く、ブランクーシが魅了されたのもよく分かります。それはともかく、モディリアーニの絵も彫刻として見ると理解できる部分が大きい。例えば、目つきですね。瞳を描かないことが多い彼の絵はそれだけで彫刻的です。もちろん、量感もですが。

これらに対し、日本では彫刻は非常に不活発ですね。一時、仏像彫刻が隆盛しましたが、どうも遠くから仰ぎ見る対象のせいでしょうか、いまひとつ身近な感じがしませんし、法隆寺釈迦三尊像なんか扁平そのものです。
どうも、日本の場合、人間やモノを量感として捉えることが苦手なのかも知れません。これも、あまり肉食をしなかったせいでしょうかね。
しかし、だから絵画が達者かというと、司馬遼太郎なんかに言わせると日本人は絵がわからないということらしい。ひょっとしたら、絵画表現の本質には対象を一度量感として捉えるという回路が必要なのかもしれません。