原典にあたることの重要性

今月号の文藝春秋佐藤優氏の「古典でしか世界は読めない」第1回「『ヂパング』をめぐる認識ギャップ」は秀逸でした。
論のキモは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」の日本に関する記事で、わが国では、「日本は黄金の国である」と書いてあるとしか知られていませんが、実際には同時に「日本人は人食い人種である」とも書いてあるんですね。で、欧米の東洋学研究者は当然「東方見聞録」を読んでいるわけで、彼らには「日本人は人食い人種である」との刷り込みがあるというのが氏の主張です。同時に、自己認識と他からの認識がしばしば違っているとも論じています。

しかし、筆者としては、「実際のテキストにあたる」ことの重要性を再度訴えたいですね。
前にも書いたような気がしますが、デカルトの「方法序説」を読んだときの驚きを忘れがたく持っています。というのは、有名な「我思うゆえに我あり」の論考の後に、神の存在証明を試みていますが、とても歯切れが悪いんですね。曰く、「我々は「完全なるもの」を思考できる、ゆえに「完全なる存在=神」は存在するのだ」ということなんですが、ちょっとねぇ。近代的自我の祖とされるデカルトも、その半分は中世に身をおいていたと言うことなんでしょう。
ちなみに、宗教改革のマルチン・ルターにしても、当時の腐敗した教会に対する闘士というイメージが強いですが、同時に彼の教義は非常に神秘主義的で、ルター派は後のナチスの淵源の一つとされているくらいですから、近代的な側面のみで捉えるべきじゃないですね。
テキストに当たるという意味では、3年前にやっと読んだ「カラマーゾフの兄弟」も衝撃でした。どこかで、世界の名作のナンバーワンに推されていた本ですが、実際読んでみると、何が何だかわからない。登場人物ははちゃめちゃなのが多いし、何より、なんであれだけしゃべりまくれるのか。で、よく分からないままに突然終わる。
まあ、途中に大審問官が「キリスト教は虚妄だ」と喝破する場面などがあって、クリスチャンには衝撃的な部分があるのかもしれませんが、それにしても。

まあ、すべてのテキストや場面を実体験することは不可能ではあるんですが、少なくとも評判と言うもののあてにならなさは改めて肝に銘じておくべきでしょうね。