突き詰めないことの効用〜いわゆる「密約」問題に思う

このブログ、「日記」とありますが、いわゆる身辺雑記は基本的に書いていません。いわば、小論文集のようなものです。そのため、書けないときには徹底的に書けませんね。というわけで、しばらくご無沙汰でした。

ところで、いわゆる「密約」問題が一部世間を騒がせています。筆者、この問題の現政権の扱いには非常に違和感を持っています。この問題、すでに当事者である若泉敬氏がその著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で明らかにしているところです(筆者は昨年秋に読了しました)。1994年刊のこの本、出版時には完全に黙殺されたとのことですが、今の民主党政権のアクティビティはこの本に乗っかっているだけのようにも思えます。しかし、この問題、突き詰めることのメリットはあるんでしょうか。というの、世の中には突き詰めてはいけないものがあるように思えるんですね。

世の中の多くの会社にはボーナスの制度があると思うんですが、会社側の言い方では「賞与」、組合は「一時金」なんて言い方をします。交渉でも、会社はあくまで「賞与」という言葉遣いをし、組合は「一時金」と言い張り、それぞれの情報展開でもそのような言い方をしますが、それを突き詰めようとはしません。やっても時間の無駄ですので、それぞれがいわばにやにやしながら相手の言葉遣いを容認している。それこそ、「大人の対応」というやつですね。

密約問題も同じだと思うんですよ。密約とか核持込み等によって、日本としても多大のベネフィットを享受してきたわけで、政治目的としてはそれでいいはずですね。それをことさら突き詰めようとするのは、政治家の対応とは思えません。

別の例ですが、筆者の友人で、何かと言うと「それって絶対だな?」と詰め寄る癖のあるのがいまして、最初のうちは辟易していたんですが、そのうちに対策を編み出しまして。彼が「絶対だな?」と言うと筆者は「俺はそう信じているよ」と応えることにしたんです。一種の論理のすり替えなんですが、どうせ世の中には「絶対」なんてないわけで、自分としてはありえないものを保障するわけにはいかないと言っているわけです。でも、同時に最大限の努力をしていることも表明している。そうなると、これ以上突っ込めませんね。

同じように、核持ち込みについても、日本政府は同じような行き方をしたわけです。なぜなら、こちらが強制力を持たないことに対しては、「最大限の努力」を表明するしかないわけで、それをあげつらうのはちょっとおかしいような気がします。

ともかく、外交というもの、「国益」を追求する一種のゲームであり、論理的な潔癖性を持ち込むのはルール違反ですらあります。いや、こと外交では「国益」のみが追求される潔癖性であり、手段そのものではないはずです。

どうも、今の民主党政権全共闘的な夢想性を感じてなりません。その昔の学生運動は、体制側も大いに危機感を抱いたようですが、結果的に打撃になったのはオイルショックだったんだそうな。要するに、「こんなことしている場合ではない」ということに気がついた途端、潮を引くようにおさまってしまったということですね。それだけ、地に足がついていなかったということです。同様に、日米同盟のありがたみを知らされる事態が来るような気がしています。

それとも、その昔の日英同盟のように、何となく解消してしまうんでしょうか。しかし、この解消こそ、あの戦争の一因になったことを考えると、それこそ恐ろしいことのように感じられてなりません。少なくとも、有権者たるもの、この問題から目を離すことはできません。