スポーツチームへのファン心理というもの

筆者、スポーツ観戦はまあ人並みに興味があるんですが、どうにも分からないのはチームのファンという心理です。
例えば、筆者の周りにも阪神ファンとか広島ファンとかがいますが、なぜそのチームのファンであるかを聞いてみても、しばしば答えられないことがありますね。広島出身であるとか、関西人であるからというのはまだ理解できますが、自分でも理由が分からず分になっているということがよくあります。
もちろん、人の好みというのは説明できないものなんですが、言いたいのはある個人ではなく、集団のファンになるとはどういうことなんだろうかということなんです。

筆者、野球よりも相撲に興味があるんですが、その点ではわかりやすい。哲学的には昨日の個人と今日の個人は同じ存在であるかという問題意識も立てられますが、まあ普通はひとつのアイデンティティとしていいでしょう。ですから、白鳳とか把瑠都について話をしても、違う対象について話すことはありえません。当然、白鳳ファンとか把瑠都ファンといえば、何を好んでいるのかは明瞭です。

しかし、巨人(というか読売。「巨人」という呼び方がいかにプロ野球を歪めたかについては以前書きました)ファンとか阪神ファンと言ったとき、好みの対象はよく考えると相当あいまいです。というのは、メンバーは次々に入れ替わっているわけで、V9時代のジャイアンツと今のジャイアンツは当然全く別なコンテンツになっています。ですから、V9時代のジャイアンツはどうだった、あるいはファンであるというのはまだ実態がありますが、変転するものをひとつの存在とするのは、まるであるパターンを散逸構造的に擬似存在として認識するかのごとくですね。

まあ、実際には特に熱狂的なファンというものは、相当なファン歴があるように思います。つまり、現在のチームは自分のファン歴を表す一種の記号であり、今のチームを応援するのは、自分のファン歴に対する応援の部分もある、という理解が可能になります。そう考えると、あるチームを熱狂的に応援する心理も分かるような気がします。つまり、応援の形をとった自己愛なんですね。そのため、一部スポーツではファンが暴徒化したりするのも、満たされない自己愛の暴発ということになり、非常にわかりやすい。

もちろん、すべてのファン心理がそうであるとはいいませんが、少なくとも「応援しているから応援している」という反復構造はあると思います。しかし、そうだとするとそのような心理にはたまねぎのようなもので芯がないということになりますし、ファン心理というものが簡単にアンチに転化することがあることにもつながります。

最近のッ自動車産業での騒ぎを見ても、チームとかブランドとかへのファン心理の扱いというのは一筋縄ではいかないことを痛感させられます。