ファン心理とナショナリズム〜風観羽さんへの回答

畏友風観羽さんからコメントをいただきました。ファン心理とナショナリズムの違いについて分析してみたら、という示唆でしたが、ヨーロッパと言うところ、本当にナショナリズムを考えざるを得ない場所です。

結論から言うと、ファン心理は「そのチームを選択しているという自分に対する愛」であり、ナショナリズムは「その集団に属しているという自分に対する愛」じゃないかと思うんですね。

どういうことかと言うと。

ファンにもいろいろ居るでしょうが、ひいきのチームをくさされても必ずしも怒ったりしませんね。負けが込んできたチームに同情したりしても、こんなチームを応援しているということを嬉々として話したりする。要するに、強いチームはもちろん、弱いチームでも問題はそれを選択し、応援している自分への愛なんですから、ひいきのチームに関心を向けられること事態が喜びなんですね。

しかし、ナショナリズムは帰属する集団=自分、ですから、この集団をくさすのは非常に危険です。つまり、間接的に相手個人をくさすのと同じなんですね。そのため、ナショナリズムが描く歴史は、「自民族は常に正しい」というテーゼで貫かれます。しばしば、各民族あるいは国民は過去の最大版図をもって自国の勢力圏としたがり、それを回復しようとしてお互いに争ってきました。しかし、当然栄光の歴史ばかりではないわけで、苦難の過去も語られます。しかし、その場合でも、自国あるいは自民族が間違っていたとは決して言いませんね。正しい自民族が暴虐な異民族に支配された、というストーリーになるわけです。

例えば昨年訪れたスロヴァキアの博物館では、第二次大戦末期の反ナチス蜂起が大きくクローズアップされていました。戦争の「正しい側」に居たと言わんばかりの扱いでしたが、実は最初、ミュンヘン協定の後、チェコ人からどうしても低く見られがちだったスロヴァキア人がこの際独立を確保するため、進んでナチスに加担していったんですね。ただ、当然ナチスからも植民地扱いだったため、戦争末期に反乱を起こしたというわけです。結局は鎮圧されましたが。しかし、心理としては大戦後に正しい側になった方に加担した(あるいはしようとした)と思いたいわけですね。

その意味から、ドイツ人のナチスの歴史に対する懺悔というのは、非常に興味あるテーマです。ナチスが間違ったことをしていたということに対しては、一部の人間を除いて疑いを入れてはいません。しかし、「ドイツ人全体」として過去を悔いているのかについては良く分からないところです。政策としては非常に努力をしているのは理解できますし、敬服に値します。しかし、今でもドイツ人は非常に傲慢な部分がありますし、筆者が好きなオペラなんかでも、ドイツの歌劇場はワーグナーが大好きですね(反対に、ポーランドあたりでは本当に上演されません)。そもそも、ナチスに対する反省、特にユダヤ人迫害/抹殺について本格的に謝罪が始まったのは案外最近のことなんです。

しかし、そもそも、「民族意識」と「反省・懺悔」というのは相容れないものなのかもしれません。つまり、民族としての反省とはその対象を客観視することが不可欠ですし、言い換えると自分を「民族のメンバー」と「普遍的な人類のメンバー」との両方として捉え、後者が前者を裁く、という形でしか可能ではないものと考えます。そうでないと、自己が崩壊してしまいますから。

やはり、ファン心理の方が付き合いやすそうですね。