ブタペストから(その1)

先週末、当地はイースターで国によっては商店やレストランなどがすべて閉まるところがあり、そうでない国にとっては結構な観光シーズンです。で、筆者もハンガリーの首都ブダペストに行ってきました。

中心部に到着したのは夜の11時頃と大分遅かったんですが、ドナウ川の両岸にある旧王宮とか教会とか国会議事堂とか、あるいは何本かある橋もすべてライトアップされていまして、まるで絵葉書のようでした。これが第一印象。もっとも、そこに至るまでの高速道路からの眺めも、なかなかの経済力を感じさせました。

翌日はまず国会議事堂へ。残念ながら朝の10時時点でその日の入場券が売り切れでさすが観光シーズンという感じでした。そのほど近くに、ナジ・イムレの像が建っています。この人、ハンガリー動乱時の首相で、その後逮捕され処刑されたんですが、共産主義崩壊後、抵抗の象徴となっています。ただ、政治的な手腕についてはどうなんでしょうか。実は、その後を継いだカーダール・ヤーノシュは20年以上独裁体制を敷いたんですが、この人、ソ連とは仲良くやりながら国内的には特に経済的には自由主義的な政策をとって、相当な実利をハンガリーにもたらしたようです。でも、現在は表向きは忘れ去られた形となっています。政治家の評価というものもなかなか難しいようです。
その後王宮の丘へ。ブタペストはプラハに良く似た構造をしていて、ドナウ川の東側がいわゆる市街で、西側の丘の上に王宮があるんですね。ただこの丘は、プラハよりもかなり規模が大きく、城壁に囲まれた縦長の地域の中にいろいろな建物が詰まっている感じです。
で、その地域の南端にあるのが旧王宮で今は国立美術館になっているんですが、これ、外観と違って内部は全く近代的な造りになっている。といいますのは、プラハと違ってブダペストは戦災でひどくやられており、王宮も外壁のみ残ったような状態だったらしいんです。ハンガリーは第二次大戦では最初枢軸側に立っていたんですが、途中から連合国と講和しようとしてナチスに占領されてしまう。その過程でひどい爆撃を受けたんですね。また、その後のソ連の侵攻も破壊に輪をかけたことでしょう。
もっとも、ブダペストって、19世紀の後半に大急ぎで作られた面もあるようです。当時、普墺戦争に敗北したオーストリアハンガリーとの二重帝国として国を再編したんですが、一方の首都としての威容を整えたんですね。例えば、王宮の再整備とか国立オペラ劇場の建設なんかが行われています。今回改めて勉強してみると、当時のハンガリーはげんこつのようなまとまりがあり、オーストリアのその他の領土はそれをもう一方の手で包みこむような感じになっていて、なるほど自治を獲得するだけの力があったことが感じられます。
で、まず国立美術館に行きましたが、ここはハンガリー美術の殿堂です。実は約30年前に日本にここの所蔵品の大展覧会がありまして、そのときに見た何点もの懐かしい絵に再会しました。いつかも書いたような気がしますが、それぞれの国民性って、近代以前の古典主義絵画の中に色濃く感じられるような気がします。近代以降は、パリ発のさまざまな手法に引きずられて、かえって各国民性が無くなっていきます(それこそ国際化なのかもしれませんが)が、古典主義時代までは手法は画一的なものの、取り上げられる主題は結構それぞれのお国振りがあります。また、ハンガリー人にはなかなか美術的な才能も感じられます。というわけで、3時間以上、たっぷり楽しみました。

その後、お隣の歴史博物館に。特に、第二次大戦時の戦禍に衝撃を受けました。思うんですが、ヨーロッパって、どこの町でも第二次大戦の爪あとをひしひしと感じます。それだけでなく、ホロコーストの歴史を経た後では、もう昔のような、底抜けの理想主義には戻れないのではないかと。しかし、それはまた、ある種の成熟でもありますし、中年以降の人がかえって純粋になる部分があるように、確固たる価値観を有する面もあると思います。ですから、例えば環境問題へのヨーロッパ人の取り組みには、このような心情的な背景を理解する必要があるのではと強く思います。

と、話を進めながら、次はなぜか軍事博物館に。筆者、戦争自体は嫌いですが、軍事オタクでもありますので。面白かったのは、最初の展示室が海軍に関するものだったんです。ハンガリー内陸国なのになぜ海軍かと言うと、これがオーストリアハンガリー時代にアドリア海に出口があり、ここでハンガリー人も戦争をしていたということなんです。今では、ドナウ川の水上警備が中心ですが、我々にもこんな歴史があるんだぞ、というわけですね。民族というか各セクターの誇りの持ち方というのはそれぞれのありようがあるものです。

どうも長くなりますので続きは次回に。