第一次大戦というもの〜現代を見る目

歴史には時々、なぜ起こったのかわからない現象があります。

例えば、イスラームの興りなんて、宗教的熱情といえばそれまでですが、なぜあの時代、あの場所だったのか。
あるいは、日英同盟はなぜ消滅してしまったのか。あれって、太平洋戦争の遠因だと思うんですが、なぜ消滅したのかどうしてもわかりません。
また、現在の日本、あるいは先進国共通の少子化傾向についても、納得できる説明には出会っていません。

なぜこんなことを書き出したのかというと、ブダペストの歴史博物館で第一次大戦前後の展示を見ながら、なぜ第一次大戦は起こったのだろうかと考えていたからです。第二次大戦についていえば、はっきり言って、第一次大戦の結果としてのゆがみの是正と解釈するのが妥当と思います。ドイツの扱い一つとっても、あんな状態にされればルサンチマンが蓄積するのは当然と思われます。歴史家のジークムント・ノイマンに言わせれば、第二次大戦は第一次大戦からの連続であり、ただその間に休戦期があっただけだということになりますが、そこまででなくても、相当な因果関係はあると考えています。

しかし、第一次対戦についてはよくわからない。大体、どこの国の歴史展示でも、第一次大戦前はいわゆる「ベル・エポック」として、本当によき時代として描かれています。経済は発展し(それが植民地からの収奪の結果であったとしても)、文化も興隆する。ヨーロッパが一番輝いていた時代といえるでしょう。それが、特に第二次大戦でめちゃくちゃになってしまう。どうしてこんな自殺行為的なことになってしまったのか。

ただ、今回の旅で、たまたま「西洋美術館」で19世紀後半のフランス絵画展をやっていまして、あるヒントを得ました。ヨーロッパ絵画って、大体ルネサンスからバロック期にほとんど完成されているんですね。例えば、ラファエロとかレンブラントとかですね。その後の画家は、イタリアのマニエリスモのような試みはあるものの、手法としては古典派から逸脱することは基本的にありません。

ところが、印象派以降は、野獣派とかキュビスムとかダダイズムなどと、スタイルの革新の連続ですね。この辺は、ダニエル・ベルなんかが形式の革新の方に関心が移ってしまったことの一種の病理を分析していますが、それはさておき、どうしてこんな事態が来てしまったのか。

思えば、18世紀までの思想史は、人間の理性を完成させる歴史だったと思うんですね。一見革命思想に見える共産主義だって、実は究極の理性主義です。だから神を否定し、人間による人間社会の完全なマネジメントが可能であるとするわけですね。美術にしても、人間理性を表現することに奉仕していたように思えます。社会主義国の美術がリアリズムを嗜好するのも同じような文脈だと理解できます。

しかし、19世紀半ばからは明らかに傾向が変わってきます。古典的表現にあきたらないというか、古典的表現では表わせない社会になっていったということなんでしょう。ただ、それをフランス革命のような人々の覚醒に求めるのはちょっと違うように感じます。昔から宗教改革など大きな思想的革新と動乱はありましたが、美術の形式にはそれほどの影響はなかったですね。フランス革命以降にしても、ドラクロアに代表される劇的表現への傾向はありましたが形式上の変化はなかったように思います。

実は筆者が注目するのは、産業化の進展です。特に機械化ですね。筆者、製造業に奉職していますが、機械化され組織された工場が動くさまは、一種セクシーな感じがします。これってどういうことかと分析してみると、こうした近代産業のダイナミズムには人間の獣性というか原始的な衝動を刺激する部分があると思うんですよ。もちろん、製造現場だけでなく、交通にしても通信にしてもどんどん革新が進行する。こうしたダイナミズムを経験した後では、もう後もどりできないというか、古典的なものでは表現できない何かがあるように思えます。

実は第一次大戦の根本にはこのような人間衝動の解放(プラスの意味でもマイナスの意味でも)があるのではないかと思います。

ところで、美術は今から振り返ると以上のような先行指標として見なすことが可能だと思いますが、現代美術はどうでしょうか。ベル先生じゃないですが、形式の革新に疲れ、すっかり実社会への影響力を失っていると思えませんか。その代わりになるのが、インターネットに代表される広域コミュニケーションじゃないかとも思えますが、メールに始まり、メーリングリストSNS、はてはツィッターなど、次から次に繰り出される「形式」を見ているとすでにしてベル先生ご指摘の病理に陥っている可能性もあります。

筆者としては改めて足で稼ぐ方法を取りたいですが、どんなもんでしょうか。