マニアックウィーン紀行(第二日目)

昼食を摂れる保証が無いので、ホテルでしっかりと腹ごしらえをして出発。ホテル近くのドナウ運河沿いに少し歩くとウラニ天文台が。ここは20世紀始めにできた天文台だがもちろん今は機能しておらず、今はプラネタリウムになっている。しかし、古風な雰囲気が何とも言えず良い。
さらに少し歩いて、郵便貯金局に。ここは19世紀末の有名な建築家オットー・ヴァーグナーの代表作の一つで、内部に当時銀よりも高価だったアルミニウムがふんだんに使われており、現代の目から見ても非常にモダンな雰囲気。今も現役で使われている。実は新婚旅行の際にも訪れているのだが、その時よりも小ぢんまりした印象。記憶はあてにならないものだ。貯金局を出ると、目の前に大きな銅像が。ウィーンは銅像が多い町として有名らしいが、これはラデツキー将軍の像であった。
そこからさらに10分ほど郊外に向かって歩く。途中、空の観光馬車と何台も行きかう。朝早い時間から考えると、どうも郊外から中心街への出勤の途中のような感じ。
次の目的地はフンデルトヴァッサーハウス。ここは、1985年に完成した市営アパートだが、設計したフンデルトヴァッサーはウィーンのガウディと言われるだけあって、実に奇天烈な雰囲気。色彩がカラフルなことに加え、壁や柱、はては通路や前の歩道までうねっていて、見ていて楽しくなってしまう。そこから徒歩数分のところにある美術館のクンストハウスウィーンに。ここはフンデルトヴァッサーの美術館。彼は本来画家で、日本人女性と結婚したこともあり、「百水」なる雅号まで持っているなど、日本にもゆかりが深い。面白いのは、展示されている作品の中に、日本の浮世絵の彫師・摺師による版画が多数あること。絵自体はポップであるが。建物自体も彼の手が入っており、不思議な雰囲気。写真史の企画展も含め、たっぷり2時間以上過ごしてしまった。
近くに中華料理店があったので昼食。そこから近郊鉄道に乗ったが、行き先を間違えてしまい、次の駅で降りて引き返すはめに。しかし、怪我の功名で、その駅からは遊園地であるプラーターが近く、例の大観覧車も間近に見えた。
気を取り直して、南駅に向かう。途中、検札があり、例のウィーンカードを見せるとお咎めなしで、一安心。
南駅で降りて、公園をずんずん歩くと軍事史博物館が見えてくる。博物館といいつつ、物凄く豪華な造りで、ほとんど宮殿。かつ何ともいえない迫力。入ると、エントランスホールは軍人の彫像で埋まっている。中世以来の武器とか甲冑とか軍服などが展示されているが、ハイライトはマリア・テレジアとかナポレオン戦争の時代、それと第一次・第二次大戦について。特に、サラエヴォ事件で暗殺され、第一次大戦のきっかけとなったフランツ・フェルディナント皇太子が狙撃された時に着ていた血染めの軍服とか、乗っていた車などがあり、まあ、これを目当てに行ったようなもの。興味深かったのは、第二次大戦の扱い。オーストリアは、ナチスに征服されたとも、ドイツの一部として戦争を戦ったとも言えるわけで、何となく中途半端な印象。ナチスによる合邦前の独裁者のドルフスについてもかなりの展示スペースが割かれており、帰ってから改めて調べることに。
公園を反対方向に10分ほど歩いて、ベルヴェデーレ宮殿に。ここは広い敷地というか庭園の中に上宮と下宮という二つの宮殿(今では美術館になっている)があり、まず上宮に。ここは、クリムトとかエゴン・シーレとかオスカー・ココシュカといったウィーン世紀末美術のコレクションで有名で、ここもお目当ての一つ。初めて日本でクリムト展を見たのはもう30年以上も前か。それ以来のファンなので。しかし、あいにく団体客が多く、特にクリムトの絵の前で長々と解説が続いてちょっと辟易。まあ、それ以外にも広範なコレクションがあったので行きつ戻りつしながらやり過ごす。
その後は下宮に。こちらは、バロックとか古典派中心。ダヴィッドによるナポレオンのアルプス越えの有名な騎馬像が何気なく飾ってあるのに驚く。やたらプリンツ・オイゲン公の肖像画が多いと思ったので改めてガイドブックを見たら、ここは公の離宮であった。みな立派な肖像画だが、頭の中でかつらを取ってみたら、ただのおじさんでちょっと苦笑。
また少し歩くと、駐車場の入口の脇に「見どころ」マークがあるので入ってみると小ぶりな宮殿が。説明書を見ると、シュヴァルツェンベルク家の屋敷とか。シュヴァルツェンベルク家といえば、前に行ったチェコのチェスキー・クロムルフとかクトナー・ホラの殿様ではないか。特に前者ではずいぶん大きな城を構えていたものだが。考えてみると、ちょうど江戸時代の国元と江戸屋敷の関係と同じであって、そんなものが今ここにあるというのが非常に面白い。ちなみに、「見どころ」マークとは赤白の旗を組み合わせてウィーンのWの形にしたもので、観光名所であることを表わしている。
駐車場を出ると、今度は交差点に大きな噴水付きの記念碑公園が。高い記念碑の真ん中には星がついており、てっぺんには兵士の像が。どうも、ソ連軍の記念碑らしい。実は、第二次大戦時に旧ソ連に「解放」された町には、けっこうこの手の碑がある。しかも、しばしば町の一等地だったりする。しかし、ここのは中心ではないものの特大だ。
そして、もうリングに戻ってきた。ここから地下鉄と市電でハイリゲンシュタットまで行くのだが、一旦途中下車し、ゴミ焼却場を見に行く。ここは朝見たフンデルトヴァッサーの代表作の一つ。ここも色彩と言い、形と言い奇抜そのもの。実は前にウィーンに車で来たときに車窓から見えて、非常に気になっていた建物。じっくりと眺めることができてしばし幸せな気分。
市電に乗り換え、ハイリゲンシュタットに。ハイリゲンシュタットといえば、耳の聞こえなくなったベートーベンが遺書を書いた場所として有名だが、相当なはずれかと思ったら市の中心から5キロも離れていないことにいささか驚く。まあ、昔の東京だって、近衛文麿の屋敷があったころの荻窪が相当な田舎だったわけで、同じようなものか。特に、馬車が主要な交通機関だったころには町の規模もおのずと規定されていたということだろう。
ハイリゲンシュタットはちょっとひなびていて、ちょっと高級な感じもする、しかし普通の住宅地。ここには、ワインを飲ませるホイリゲがいくつもある。店のあたりをつけてから、さらに10分ほど歩いてベートーベンの散歩道を見に行く。小川の両側に散歩道があるが、普通の住宅が並んでいて玉川上水のミニチュアのような感じ。もちろん、昔はもっと開けていなかったのかもしれないが、歩きながら「田園」を構想した、という風情にはなかなか見えず。
ホイリゲに戻る。マイヤーという、ベートーベンが第九を作曲したといわれている家の跡だとか。中庭が席で、雨が降っていないことに感謝。席を探したが、あいにく中年男性7人くらいのグループと相席となってしまった。すると、彼らが話に入れと誘ってくる。聞いてみると、ドイツ西部のケルンに近い町の幼馴染によるボウリングクラブでウィーンまで旅行に来たとか。筆者が一人旅でホイリゲに来たのが珍しいらしく、ドイツ語で「シシィでも探しにきたんじゃないか」といった意味の冗談を言っているようだったので、「じゃ、紹介して」などと応ずる。メンバーのうち二人が日系企業勤務なのに驚く。つまみのパンを勧められたので、こちらもポテトフライをとってお返しをしたりする。そのうち、両親と身障者の息子の3人連れも相席になり混んで来たので、ワインの小カラフェ2杯で退散する。どうも、ゆっくり食事というよりも、飲む場所のよう。8時過ぎでやっと夕方の雰囲気。
市電で帰ったが、さすがに腹が減り、ホテルの近くでケバブ仕入れて帰る。