なぜ日本人は海外に出かけなくなったか

法務省の統計によれば、2008年の海外出国者数は前年に比べ、約10%減ったとか。また、特に最近は若者が海外に出て行かなくなったと言われています。そこで、なぜ日本人が海外に行かなくなったのかを考えてみます。

一番の要員はやはり経済的な理由からでしょうか。確かに、ここしばらく安・近・短などといわれ、国内も含め旅行が小型化する傾向があるのはこの面が大きいかと思います。

次に考えられるのは、海外旅行に飽きてきたという可能性です。これはかなり大きいでしょうね。一つは、ある程度のところに行ってしまったということです。確かに、相当辺鄙なところにも日本人が行っているようですから、このような要素は否定できません。しかし、世界は広いですからね。そう簡単には飽きないように思えます。

結構大きいのは、気が済んだということじゃないでしょうか。一応海外に行った、で、何か見たし、言葉は通じないし結構しんどいし、食事も案外口に合わないし。特に富裕層が高齢化した中では、こういう面って大きいですよね。逆に、今、日本国内の良さを発見しているようにも思えます。最近、冬の富山県氷見市って、観光バスで押すな押すならしいですね(ヨーロッパの片田舎でこういう情報に接することができるのが最近の情報社会のありがたさです)。筆者も昨年、一時帰国時に鳥取島根に始めて行きましたが、素晴らしかったですね。どうも、例のミシュランの調査によって、東京が世界一の美食都市であることがあからさまになったそうな。そりゃそうでしょうね。和食はもちろん、フレンチ始めヨーロッパ各国料理、中華料理(本土をはるかに凌ぐとか)、韓国などが一流の味を競っていますし、はてはアジアなど各国料理もおしなべて食べられますから、こんな町は無いですよね。特に、日本料理は素材を選びますので他の国では厳しいものがあります。

あと、大きいのはヨーロッパの有名ブランドの日本出店でしょうか。確かにブランドにとっては稼ぎになったかもしれませんが、海外旅行にとっては打撃ですよね。また、ブランドにとっても、その希少性を大きく毀損したようにも思います。また、ある人に言わせると、今、日本に世界中のいいものが集まるとか。ですから、海外、特にアジアからの旅行者が、「日本で買った」ということに価値を見出す時代だそうです。つまり、日本人の「目利き」が評価されるようになっている。そうなると、ショッピングの面でも外に出て行く理由がなくなります。

気になるのは若者が海外に行かなくなったといわれる点です。
これは、若者の海外志向とかはては覇気ガが無くなったなどと論ぜられますが、そう簡単でもないのではと感じています。というのは、若者に余裕がなくなっているというのが大きな原因ではないかと思うからです。
筆者、1982年に大学を卒業したんですが、その直前に「卒業旅行」のはしりをしました。でも、当時海外旅行は高かったですから、4年生はほとんど就職活動とアルバイトしかしませんでした。まあ、当時の大学生はかなり暇がありましたね。
ところが、こちらに来る前に、昔属していた大学の合唱団の在校生の演奏会にOBとして参加したんですが、自分たちの頃には文系の学生しかいなかったのが、理系の比率が大きく増えたのに驚かされました。どうも、文系の学生は資格取得とか就職活動などで非常に忙しいらしいんですな。逆に、工学部など理科系は大半が大学院に進むため、学部生の間はこうした活動に打ち込めるということです。サークル活動がこのような状況ですから、まして海外に行っているどころではないということも言えるでしょう。

とはいえ、やはり海外志向が弱くなっている可能性はありえます。考えられることの一つに、日本国内で得られる情報量が飛躍的に大きくなったことがあります。海外に実際に行かなくてもかなりの情報が手に入りますし、国内にいても楽しいことが沢山あるというわけです。
しかし筆者、海外に住んでみてしみじみ思うのは、見ると聞くとは大違い、見ると住むとも大違いと言うことです。それほど長くない人生ですから、どうせならいろいろなものを実際に見聞きしたいですよね。また、そうした生きた情報を体感することが生活の質を高めると思うんですが。やっぱり現地現物ですよ。

ということで、海外体験の意義は全く低下することなく、むしろいやましになっていると言うのが今日の結論でした。

国母選手の騒動に思う

大分旧聞に属しますが、バンクーバーオリンピックでの国母選手の振る舞いと、その後の騒動はネット上でも賛否両論相当な波紋を広げました。今回はこの件について少し考えてみます。
海外生活をしている立場からすると、まず言いたいのは、税金で参加しているのに日本の逆宣伝をするなということですね。幸いなことに、少なくともヨーロッパでは日本人は日本人と言うだけで、同じアジア人でも(悪いですが)韓国人や中国人に比べてかなりな信用があります。例えば空港でのパスポートコントロールとか税関でも、格段に簡単に通してもらえます。これって、過去からのいろいろなポジティブな行動の積み重ねによるものと思います。また、例えば天皇さんご夫妻の海外訪問先での立ち居振る舞いとか雰囲気なんかからも相当なメリットを享受しています。そうした中、彼の行動はおよそ迷惑極まりないですね。
それでなくても、冬季オリンピックって夏に比べ多分に貴族的なムードがありますから、いっそう影響というか浮く部分が大きいように感じます。
まあ、そうは言っても、彼をもって日本人の代表と見られるとは限りませんが、少なくともスノーボードと言う競技にとっては決定的な悪影響でしょうね。トリノの時の成田童夢今井メロの兄弟も相当な雰囲気でしたし、今回の国母選手へのこうした注目から、スノーボードという競技が完全にロウ・ブラウなものであるというイメージが固まったということが言えると思います。
因みにイギリスでは知識層はサッカーについて一切話題にしませんし、逆に話題にするとその人の出自が疑われると言うとのこと。また、アメリカでもスポーツごとで社会的な信用が大きく異なります。特にプロゴルファーは非常にステイタスが高く、だからこそタイガー・ウッズの不倫があれだけ騒がれるんでしょうね。他のスポーツならあそこまでたたかれることはなかったでしょう。
また、彼の母校の冷たい態度に対して批判もあるようですが、学校のイメージへの打撃を最小限にしたいと言う動機が働いたと言うことなんでしょう。特にこれだけ厳しい就職状況の中、他の学生への影響も無いわけではないでしょうから大学も必死ですね。
いずれにせよ、オリンピックという場、いろいろな意味で注目度が高く、それだけに関係者も単なる競技能力だけでなく、いろいろな面を考えていく必要があるということですね。

キイボードに代わる入力手段の可能性

最近、更新をさぼっていました。別に体調が悪いわけじゃないんですが、いろいろ忙しくて書くのが億劫になるときがありますね。

一つは、日頃仕事でパソコンばかり使っているので、打つのが飽きているという面があります。筆者の趣味である料理なんか、やっているとほとんど苦痛を感じないんですが、好きであるのと同時にやはり普段やっていないことをやっているからでしょうね。毎日のおさんどんとなると苦痛を感じることでしょう。

しかし、大きな原因は筆者、キイボードが苦手であると言うことがあります。書きたいことはあっても、キイボードへの入力が遅く、また打ち間違いがかなりあってストレスが溜まります。ブラインドタッチが出来る人は本当にうらやましいですね。ちゃんと訓練しておけば良かったと思うことしきりです。

しかし、このキイボード、実はわざと打ちにくく作ったという話を昔聞いたことがあります。今のキイボードはもちろん昔のタイプライターの配列そのままなんですが、当時の機構の限界から多く打つ文字をわざと離したとか。ウィキペディアを調べてみると決定的な説は無いようですが、打ちやすく出来ていないという点は確かなようです。

というわけで、筆者がストレスを感じるのも満更根拠レスでもないようですが、代替手段はありうるんでしょうか。
すぐに思い浮かべるのは音声入力ですが、どうでしょうか。どうも、「書く」という行為と「発声」という行為はちょっと違うんじゃないかと思う節があります。というのは、書いて(打って)いると、いい意味の「筆のすべり」を感じるときがあります。これって、多分書くことのリズム感から来るように思うんですよね。もちろん、しゃべる際のリズムもありますが、どちらかというと聞き手との相乗効果での「すべり」と思うんですね(世の中の大半の失言はこれじゃないでしょうか)。しかし、ひとりでしゃべっていて「すべり」は期待できないでしょうね。

でも、未来の社会とかいって、皆がキイボードに向かっているというのはちょっといただけませんね。もちろん、携帯の親指入力も同じですよ。本当は考えていることをそのままデータ化してくれるような技術が出てきてくれるといいんですが。でも、そうなると、思想の取り締まりに利用されそうで、これはこれで怖いですね。

何だかんだ言って打ってしまいました。うん、うらみつらみを吐き出すのが一番のストレスのない入力だったりして。

雪斎殿の40年周期説と我慢のしどころ

政治学者である雪斎こと桜井淳東洋学園大学准教授のブログは欠かさずチェックしていますが、少し前の「2045年へ・・・」は秀逸でした。

http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-9ca6.html

氏は、いわゆる近代日本盛衰四十年説を引用しながら、世代論を展開しています。この四十年説というのは、明治維新の1867年、日露戦争勝利の1904年、太平洋戦争敗戦の1945年をそれぞれ谷と山とする説でなかなか説得力に富んでおり、特に物事を単純化したがるサラリーマン層には受けがいいですね。
今日はこの論を前提として話を進めてみたいですが、筆者としてこの説に魅力を感じるのは、山が1985年ごろに来ているという点です。前にも書いたように、筆者、日本の高度成長はオイルショックで終わっており、その後に「安定成長」が叫ばれた時代のことを皆が忘れてしまっていることを非常に不思議に思っています。このようなことは森永卓郎さんが書いていますが、最近では「下り坂社会を生きる」で小幡績さんが同じようなことを言っていて、はたとひざを打ったものです。
一旦はバブルの時代を迎えますが、筆者には本質的な成長の時代とはとても思えませんし、財政的には今に至るも役満を振り込み続けてハコテン、いや大変な借金になりながら打ち続けるヘボ雀士に見えてしまいます。もちろん、バブルの時代に今のような衰退を予想することは難しかったかもしれませんが、すでに人口動態は少子高齢化を予想していましたし、年金が立ち行かなくなることも明白でした。逆に、そうした破綻の予感を忘れるためにバブルが発生したようにも思えます。
それにしても、あと15年も下り坂が続くと思うとげんなりするかもしれません。つい、成長戦略なんて言いたくなるかも知れません。
筆者の考えは、成長を捨てる必要はないんですが、「来年からの」成長はあきらめた方がいいんじゃないかということです。こんな少子高齢化の中では、昔のような高度成長なんかありえませんよ。むしろ、公共事業なんか、マイナスの乗数効果じゃないかと思えるときがあります。年金原資を食いつぶしているんですから。
しかし、いやな言い方をすると、団塊の世代が通過したあと(この意味は分かりますね)、短期的かもしれませんが「高齢化」の呪縛から逃れることが出来る可能性があるんじゃないかと思っています。もちろん、そうなったら単純に成長の波に乗れるとも思えませんが、少なくともこのあたりをターゲットにいろいろ「仕込み」をするなんて悪くないんじゃないでしょうか。
筆者、これも前に書きましたが、博打において、大数の法則と確率の間に「つき」というかある種の循環があると思っていますが、社会についても同じようなことがあっても不思議じゃないですね。ですから、今はマージャンで言う「我慢の時期」であり、大きな上がりよりも振込みを警戒しながら小ぶりな成果を求める、同時に将来に対して準備する時期なんじゃないかと思うんですよ。
で、何が仕込みかと言うと、やはり人材育成でしょうね。大戦後の高度経済成長の一つの原動力は、それまでの教育にあったのではないか。具体的には、平均的なレベルの高さと、教養主義と、理系の充実です。しかし、筆者、昔の教育を再現しようなどと言うつもりは毛頭ありません。これも書いたことがありますが、高度成長の限界はそれまでの教育がその限界(というか寿命)にぶちあたったことにもあると思うからです。じゃ、どういう方向がいいのか。未だ模索の中にあるとは思いますが、変なハコモノ議論よりもよほど面白く、未来を感じさせる模索ではあります。個人的には、知識面だけでなく、感性とかあるいは助け合いの心とか、今まであまり目を向けてこなかった部分に将来を感じています。
但し、前提として戦争を絶対に避けることです。戦争を起こしては、何にもなりません。実は結構難しい選択を迫られることがあろうかと思いますが、国民としても取り組みがいのある仕事と思います。
そう考えると、ここしばらくの世の中も、なかなか捨てたもんじゃありませんぜ。

戦艦武蔵

年末に一時帰国しまして、その際、両親のもとにも顔を出しました。で、何冊か本ももらってきたんですが、その一つが吉村昭の「戦艦武蔵」で、帰りの飛行機の中で読んでしまいました。
実は、少し前にこちらで見ていたTV番組の中で、ドキュメンタリーの秀作として取り上げられており、読んでみたい本でしたので、これ幸いともらったわけです。

内容としては、あとがき含め250ページ中、180ページが建造にあてられています。実際、大変な苦労の連続だったわけで、読んでいて飽きなかったですね。冒頭は、建造中の艦を目隠しするための葦が集められる話から始まり、一連の工程が記述されていくんですが、特に印象的だったのは、進水だけに1年以上の研究に没頭した技師の話です。艦体自体が非常な重量であるだけでなく、長崎造船所の海面は非常に狭いため、進水後向こうの岩壁に衝突しないための対策までしなければならなかったと言うわけです。
そうして苦心惨憺して建造した武蔵ですが、その巨大さゆえ基地停泊が長く、結局大した戦果をあげられないまま、最後はレイテ海戦で沈んでしまう。助かった乗組員のその後の悲惨な末路(陸上の戦場にばら撒かれ、大半が戦死)も含め、巨大な徒労感が残ります。
文庫版解説で、磯田光一氏が、「一つの日本人の集団自殺の物語」と評していますが、さすがうまいことを言いますね。そう、一人ひとりは持ち場を守って精一杯努力しているのに、その総体は愚行とも言える結果しかもたらさない。戦争というものの愚かしさだけでなく、集合行動にはしばしばそのような不合理なものが現れますね。単に指導者の力不足だけではなく、そこには、個々の人間には現しえないどろどろした情念があるような気がしてなりません。つまり、個々人ではできないことが、集合行動では集合行動であることがいわば言い訳になりながら(「自分は望んでいないが・・・」)できてしまうことがあるのではないかということです。あるいは、集合行動自体が陶酔性を持っているという面も見逃せません。
そう考えると、著者である吉村昭氏が、著述の大半を建造にあてた気持ちが何となく分かりますね。

文藝春秋というもの

今月もまた文藝春秋が届きました。
いつも思うんですが、この雑誌、ここだけ昭和から時間が止まったような錯覚に陥らせてくれます。
まず、追憶ものが非常に多い。それもほとんどは昭和の時代が対象です。
それから、軍隊関係の記事も欠かしていません。「日本軍に学ぶ」だったり「日本軍の戦略のまずさの告発」だったりとそのつど趣向を変えてはいますが、何らかの形で必ず入っていますね。

いったい、文藝春秋の読者層の平均年齢っていくつなんでしょうか。現在、50歳を超えている筆者から見ても相当上に感じるんですから、おそらく60歳半ばというところかも知れません。当然、誌面づくりもその辺をターゲットとしていることでしょう。

そうすると、気になるのは、この先どうするつもりなのかということですね。普通に考えれば、昭和に思いを残している人の数はどんどん減っていくわけで、自然先細りになります。何らかのリニューアルを検討しないんでしょうか。

しかし、考えようによっては、現在の形を続けるのが一番の道とも言えます。というのは、この総合月刊誌というジャンル、すでに「現代」はなく、「中央公論」だって昔日の影もなくなった今、「文藝春秋」残存者利益を一身に集めることができていますし、その規模はまだまだ侮れないものがあります。何より、大半の活字メディアが存亡の危機にある中、変にリニューアルしても既存の読者を失う一方、新たな読者の獲得は難しいでしょうから。

そう考えると、同誌が昭和に殉じているように見えるのもある意味合理的な選択なんでしょう。

それにしても、昭和の世界に遊ぶワンダーランドとしてはいざ知らず、情報源としてはあまりに鮮度が落ちてきたように感じまして、購読自体を再検討しているところではあります。ただ、毎号、一つくらいはっとさせられる記事があるのも事実で、まあ、しばらくだらだらと続いていくんでしょうね。

原典にあたることの重要性

今月号の文藝春秋佐藤優氏の「古典でしか世界は読めない」第1回「『ヂパング』をめぐる認識ギャップ」は秀逸でした。
論のキモは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」の日本に関する記事で、わが国では、「日本は黄金の国である」と書いてあるとしか知られていませんが、実際には同時に「日本人は人食い人種である」とも書いてあるんですね。で、欧米の東洋学研究者は当然「東方見聞録」を読んでいるわけで、彼らには「日本人は人食い人種である」との刷り込みがあるというのが氏の主張です。同時に、自己認識と他からの認識がしばしば違っているとも論じています。

しかし、筆者としては、「実際のテキストにあたる」ことの重要性を再度訴えたいですね。
前にも書いたような気がしますが、デカルトの「方法序説」を読んだときの驚きを忘れがたく持っています。というのは、有名な「我思うゆえに我あり」の論考の後に、神の存在証明を試みていますが、とても歯切れが悪いんですね。曰く、「我々は「完全なるもの」を思考できる、ゆえに「完全なる存在=神」は存在するのだ」ということなんですが、ちょっとねぇ。近代的自我の祖とされるデカルトも、その半分は中世に身をおいていたと言うことなんでしょう。
ちなみに、宗教改革のマルチン・ルターにしても、当時の腐敗した教会に対する闘士というイメージが強いですが、同時に彼の教義は非常に神秘主義的で、ルター派は後のナチスの淵源の一つとされているくらいですから、近代的な側面のみで捉えるべきじゃないですね。
テキストに当たるという意味では、3年前にやっと読んだ「カラマーゾフの兄弟」も衝撃でした。どこかで、世界の名作のナンバーワンに推されていた本ですが、実際読んでみると、何が何だかわからない。登場人物ははちゃめちゃなのが多いし、何より、なんであれだけしゃべりまくれるのか。で、よく分からないままに突然終わる。
まあ、途中に大審問官が「キリスト教は虚妄だ」と喝破する場面などがあって、クリスチャンには衝撃的な部分があるのかもしれませんが、それにしても。

まあ、すべてのテキストや場面を実体験することは不可能ではあるんですが、少なくとも評判と言うもののあてにならなさは改めて肝に銘じておくべきでしょうね。